自分を許せばラクになる プロローグ

プロローグ


 許せない。何もかも――。

 そんな気分にここ数年、いや、もっと昔から支配されてきた気がする。

 理由はわからない。思い当たるきっかけがあるわけでもない。ただなんとなく、慢性的な憤りというか、不機嫌というか、正体不明のイライラが頭のなかを占領していて、気持ちが晴れない感じなのだ。

 僕の二〇代は、なんとなく終わってしまった。本当に、なんとなくだ。就活で駆けまわっていた頃の自分が、今となっては、人生史上一番輝いていた気さえする。あの頃は信じられる友人もいたし、未来は手つかずのまま残っていた。
  でも社会に出て、仕事や、親ほど年の離れた上司との関係や、社外の人とのやりとりなど、新しいことに追われて過ごしているうちに、二〇代はあっけなく過ぎてしまった。
  あの頃の自分からすれば、三〇代に入った今の自分は、かなり大人の部類に入る。だけれど、まだ何者にもなれていない気がする。

 本当は、もっと仕事で実績を積んで、プライベートも充実していて、結婚もして、大学時代の友人に胸を張れる自分になっていたかった。
 でも、今の自分は――あまりに平凡だ。愕然とするくらいに、何者でもない自分がいる。

 その一方で、最近沸々と湧き上がってきた思いがある。それが、今の感情だ――何かが〝許せない〟という思い。
 仕事のプレッシャーか、人間関係のストレスか、このまま終わってたまるかという危機感か。はっきりしないが、とにかく心に余裕がない。何をしても満たされず、心はいつも渇いている。生きている気がしないのだ。
 〝おまえ、ヤバいぞ〟――どこがどうヤバいのかわからないが、誰かにそう言われている気がするのだ。

 そんな僕がいま立っているのは、ある寺の前だ。
 造りは思いのほか小さくて、外観は古民家に近い。渋茶の門の向こうに、小ぶりな楓【かえで】の枝葉が覗いている。木陰の下の敷石を数枚渡れば、もう引き戸の玄関だ。
 この奥に、一人の和尚がいるというのだ。どんな人か、名をなんというのか、何も知らない。友人に聞いた話だと、日本人でもないらしい。
 ふつう坊さんといえば、宗派はどこで、どの寺の住職でといった肩書きから入るのだけど、ここの和尚は宗派どころか、どこにも属していないという。なんだそれは?

 それでも、友人は、ぽつりと言ったのだ。
「会ってみると、いいよ。たぶん、人生を変えるって、こういう静かな出会いから始まるんだって、わかると思う」
 他人の助言なんて、素直に聞けるたちじゃない。だから友人にも、意地悪な反駁の言葉をぶつけた。宗教はイヤだとか、怪しい自己啓発セミナーだろうとか、人生を変えるだなんて弱い人間が考えることだろう、といったことを。
 だが友人は、「自分もそう思っていたけど――」と少し笑って、真面目な口調で言った。
「人生を変えるというのは、そのどれでもない。いや、変えるという表現自体が、おかしいのかもしれない。
 人生というより〝心〟なんだ。僕がその場所で学んだのは、心を……」


 心を、なんだ――?
 

「いや、それ以上は言えない。ボクがいま語っても、意地っ張りのキミは、絶対に納得しない。
 とにかく、会ってみるといい。キミがもうこれ以上、今の悩みを抱えていたくないならね」


 ひねくれ者の僕が、友人の言葉になんとなく引っかかったのは、そのときの彼の態度が、静かな自信に満ちていたからだ。
 学生時代の彼は、人見知りのおとなしいやつだった。だからこそ、押しの強い僕と逆に性が合ったのだろうが、二人で話すときは、僕が一方的に話して、彼は照れたような笑いを浮かべて聞いているだけだった。サークルの先輩への不満や、世間の話題への批判めいたことを語っても、友人は黙って聞いている。そういう関係だった。
 卒業して十年近く経って再会した今回も、同じようなノリになるだろうと思っていた。
 

 しかし、違ったのだ――。
 

 僕が仕事の愚痴をこぼしたり、同僚の悪口を言ったりしても、彼は頷かない。あからさまに否定はしないが、「それはどうかな」という顔を見せる。
 ちょっとムッとした。エイコと喧嘩別れした話をしたときも、彼女への不満を語った僕を、友人はまっすぐ見つめて何も言わなかった。
 ドキリとした。こいつは、かつての男じゃない――そんな気がした。
 別れた後、小さな敗北感が胸に刻まれた。夏休み明けに同級生に再会したら、背を越されていたという感じ。
 友人は、いつの間にか成熟していた。その落ち着いた姿に比べて、小さなことでイライラしている自分が、ずいぶん幼い人間に思えた。

 いったい、何が彼を変えたんだ――?

 このとき友人が、宗教の勧誘などをしていたら、僕は一笑に付して終わっていただろう。「こいつ、宗教に逃げたんだ」みたいな、不遜な感想を向けていたに違いない。
 だが、友人は何も語らなかった。その姿は、あまりに自然体だった。何かに勧誘するでも、意見を語るでも、自分の成長を誇示するわけでもない。泰然自若と呼ぶのがふさわしい佇まいだった。
 だからこそ、僕のなかに焦りが生まれた。彼が変わった理由を、知りたいと思った。正直かなり軽く見ていたやつが、僕以上に成熟した人間になっている。その謎の答えが知りたかった。

 それだけじゃない。エイコと別れてしまった後も、どうにもスッキリしない思いでいる。別れた理由はちゃんとあったと思いたいのだが、「あれでよかったのか?」という思いが、今も抜けない。
 最後の日に、僕は彼女を責め、溜まっていた不満をぶつけた。「君のそういうところが、嫌いなんだ」と、理屈っぽく理由を語って、背中を向けた。
 そのときエイコが、泣いていたのか、怒っていたのか、どんな表情で立っていたのか、僕は知らない。それきり連絡は途絶えた。
 それから今日に至るまで、僕のなかで、すっきりしない感情が渦を巻いている。何かが間違っていた気もする。だが、それが何なのか、わからない。正直わかりたくもない自分がいる――。

「・・・を勉強しに来たのですか?」


 突然、ひとの声がした。とっさに目を向けると、門の左手奥の中庭らしいところに、人間が立っていた。


小説『自分を許せばラクになる』2017 から

(※現在は絶版です。復刻版をお待ちください)