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『看護教育』

医学書院が発行する『看護教育』No.66(2025年第4号)巻頭インタビュー記事 で取り上げていただきました。


十年間、なんとか続いた看護専門学校での講義について。

『看護教育』は、分厚く、隅々まで良質な情報満載の専門誌です。

内容充実にびっくり


看護というのは、私の眼から見ると、尊いけれど、じれったい、もどかしい業界だったりします。

看護なくしては、生きていけない人がいる。看護は世界が回っていくためにか欠かせない大事な仕事。

とはいえ、現場の看護師さんは、もう限界。患者の数も業務の量も増えているのに、看護師の数は増えないし、地位や待遇は上がらない。

無理はものは無理と言っていいし、改善すべき点は改善せよと上に突き上げていい(はず)。

どれほどの理不尽・非合理が、看護の現場に蓄積されているか、わかっている部分も多いだろうに、みんな忙しすぎて、優しすぎて、いい意味でも悪い意味でもタフ過ぎて、なかなか気づかない。気づいても声を挙げられない。闘うために動くことができない。

大変であることはみんな実感しているのだけれど、現場の声が集約されない。

「そこまで背負わなくていいですよ」と言いたくなるし、でも、看護師さんがいなければ途端に頓挫してしまう現場の実態もあるし、その点では尊いし。

だからこそ、うーん、うーん(いいのかな、なんとかしてほしいな、なんとかできないものかな、でもみんな頑張っちゃうんだな、偉いな、でも気の毒だな・・)という思いが回り続けて、

でもそんな自分は、ただの坊さんでしかないしな、というところにずっとい続けているという状況です。

坊さんというのは、いろんな分野に通じる”心の使い方”(智慧)を伝えることはできるけれど、すべての分野について外様(部外者)であるという疎外感・淋しさを脱することができない仕事。

問題が見える割には、何もできない・・私の場合は、全方位に向けてずっとそんな感じなのだけれど、

中でもひときわ、背負わなくていいものまで背負っている、でも背負わなければ回っていかない、そういう現実を垣間見て、もどかしく思い続けているのが、看護の世界です。


(一部紹介)
――最後に、看護教員の方々に向けてのエールをお願いします。

草薙 そもそも看護は人間のためにあります。苦しみを抱えた人が看護に何を求めるか、どうしてほしいのか。それは特別なものであってはいけなくて、むしろ誰もが納得できるものであるはずです。

だから教える側としても、難しく考えすぎずに、一人の人間として、特に患者の立場に立って「こんな看護師になってほしい」という願いを込めて向き合えばいいのだろうと思います。

しかし教員の人たち自身が、答えを見失っていることがあります。形にとらわれ、義務に追われて、「人として、これを伝えたい」という思いを忘れてしまうのです。開き直って自分の素朴な思いを伝えていいのかもしれません。もっと楽しくやればいいのです。

教育というのは、未来を育てる仕事です。極端にいえば、自分が消えた後の未来を支える人材を育てる仕事なのです。だから自分のことはどうでもいい。どうせ間もなく引退するし、近い将来いなくなるから、その後に誰か、看護できる人間、人を救える人間が残っていてほしい――そんな思いで取り組むのが、看護教育であるような気がします。

看護教育を支えるのは、そうした使命感と、教えることそのものが面白いと思えること、この二つかもしれません。私も、この二つが自分の中で失われない限り、看護教育の末席にい続けたいと思っています。

倫理も、看護も、教育も、まだまだ未開拓にして発展途上です。だからこそやりがいがあるし、面白い。看護に携わる人たちはみんな、私にとって心から尊敬する人たちです。

「まだまだできることはあるぞ」と思える、元気な先生や看護のプロの方々と、これからも出会いたいと思っています。




2025年7月25日

興道の里とは

2012年6月作成の原稿から:


興(こう)道(どう)の里(さと)とは――

 将来に創りたい場所です。“お寺のような、学校のような、村のような”――人々が気軽に集まり、生活し、“幸福への方法”(正しい生き方)を学べる場所。

 その支柱となるものは、やはり“ブッダの教え”(正確にはブッダが見つけた幸福への方法)ということになるでしょう(僧侶くさなぎ龍瞬が一番お役に立てる分野ですので)。

 ただ、“宗教”的な場所にはしません。宗教というのは、特定の妄想を信じることで救われた気分になる思想だと言えます。しかし、それでは“信じる者しか救われない”という限界があります。

 私がめざしたいのは、信じる・信じないのレベルではなく、もっと広く、人それぞれが自分自身の幸せな・満足のいく・納得のいく人生をまっとうするための合理的な方法です。

 それぞれが自分の暮らしの中で自由に試し、実践できるオープンな知恵。そしてそれぞれのやり方で、この世の中の改善・前進のために役立つ何か(新しい価値)を創り出せるような生き方です。そういう生き方を学べる場所を最終的に作れたら、というのが、私の目標です。
 
 僧侶くさなぎ龍瞬の活動は、こうした目標を最終ゴールとして組み立てられています。“興道の里”とは、いわば私自身の人生の方向性なのです。

 



 現時点での課題は、「仏教をこの社会にどのような形で伝えれば、最も多くの人に役立つのか?」というもの。いわば “ベストの活用方法” を探している段階です。いくつかの場所で行っている仏教講座や、本の執筆なども、方法探しの一環として行っています。

 “このやり方なら仏教を宗教とせずに、より多くの人に役立ててもらえる” という手応えと、経済的基盤が手に入り次第、どこかに拠点を定めて、活動の新しいステージに入る予定です。それが整ったら、さらに次の段階へ――。徐々に整えていきたいと考えています。

 ひとの道(生き方)というのは、最終的には、自分以外の誰かの幸せの役に立ち、そのことが自分にとっての幸せになるというあり方に落ち着くのではないか、と個人的には思っています。

 僧侶くさなぎ龍瞬が創り出したいのは、人々の幸せにコレだけは欠かせないという生き方・考え方・価値観というものを、取り戻し・発見し・発展させていくための “きっかけ” です。どういう “きっかけ” がこれから生みだされていくか――見守っていただければと願っています。

 何より大切なことは、あなた自身にとっての“現実”の改善に、この場所を役立てていただくこと。この場所が提供するのは、心のわずらいを取り除き、浄化する方法。日々直面する問題を解決・改善する方法です。

 この場所でお伝えしている内容はすべて、宗教としての仏教ではなく、誰もが実践できる合理的な知恵・方法として組み立てられています。あなた自身の自由なやりかたで学び、活用していただければと思います。
 よろしくお願いいたします――。



2012年6月24日付

講演「大人たちこそ今どう生きるべきか」

2023年3月19日(火)
13時~15時 

よき未来を育てるために 
大人たちこそ今どう生きるべきか



日本が急速に変わろうとしています。一人ひとりは頑張って生きてきたはずなのに、自分も、世の中も、「どこかおかしい」という今に至っています。

残された時間を、いかに生きるべきか? やり残したことは何なのか? 子供・孫の世代に何を伝えるべきか? 大人の自分に必要な「生き方」とは?を一緒に考えます。

★ブッダほか先人たちの生き方・旅立ち方を振り返る特別教材を使用します。

★講座終了後の無料面会あり(1人15分程/要予約)

★オンライン受講可


お問い合わせ・予約 栄中日文化センター 0120 - 53 - 8164 

〒460-0008 愛知県名古屋市中区栄4-16-36 久屋中日ビル7階

 

 ★4月以降の講座は近日公開します。