応じるか従うか~親子の葛藤を越える計算式

<おたよりから> 
※本人の許諾を得て、一部編集してお届けしています

私の母は、今までも何かあると一番に私に電話してきます。必ずそれにこたえる形で動いてきました。

私自身は、子供の頃はバカ扱いされ、兄弟と比較され、そのうえ一番上という事もあり、大学費用は出せないという事で、奨学金をもらいながら働いて、親にお金を出してもらうことなく〇〇〇になりました。

それに対して、兄弟は皆大学まで親がお金を出し、生活を援助してもらい、ぬくぬくと学生生活を送り社会人になるという、あまりの違いに憤りさえ感じています、

なぜか何かあると一番に私に連絡が来て、私がお金を出したり動いたりしています。なぜそのようにしなくてはならないのか、なぜ兄弟が弟たちがやらないのか、不服を感じながら黙ってやっていました。

先日になって母から電話が何回かあり、何回話しても理解してもらえず最終的に仕事もあって断りました。
自分でも気がついているのですが、イラつきの強い口調で話しています。母も、変わったね、きつくなった。と言っていました。

私の中で何か変化が起きているのはわかっていますが、この変化が良い方向性に向いているのか、悪い方向性に向いているのか? 自分でも理解できていません。

後々両親がなくなった時後悔するのでは?と思ったりもします。特に今までの経緯で色々言われてきた母とは一線を引きたいと思っていますが、それが正しい事なのか。

過去に引きずられている私がいることも問題だと思うし、後悔しそうだし。私の身の振り方は誤っているのでしょうか。


◇◇◇◇◇

<おこたえ>

ここまでに起きた出来事は、本人の感想はともあれ、間違ってはいません。

過去には拒めなかったことを拒めるようになったのだから、成長しています。

その心を見れば、親・兄弟たちは、自分たちに都合の悪いことはこの相談者がやってくれるもの、それが当然、と思っているのでしょう。もともとそういう扱いだということ。生まれ持った環境における、家族の中での位置づけ・役割というのは、簡単に変わるものではありません。

この人は、いいように利用されてきたのです。他の兄弟に比べても、ろくな扱いを受けていない。兄弟が受け取ってきたものを、自分は受け取っていない。

この人は、自分の力で生きて、自分の力でここまで来たのです。恩に着る必要はありません。


「都合のいい時だけ頼るのは、やめてください」
「私は応えるつもりはないから、別の手段を考えてくれますか」
「他の兄弟がやってくれることになった? そうですか。別に私に報告しなくていいです」

くらいでよいのです。


ただしこの人は、ずっと昔から、「応えるのが自分の使命であり務め」と思い込まされてきた様子もあります。さらには親に愛されたいという子供の頃からの願望も、まだ覚めることなく残っている可能性があります。

そういう捨てきれない願い(妄想)があるから、応えないことに罪悪感を覚えるのでしょう。声(連絡)がかかると途端に落ち着かなくなるのです。応えなくてはいけないのでは?と思ってしまう。

罪の意識、良心の呵責・・・こうしたものは、相手の一方的要求に「応えてあげなければ」とつい持ち前の執着を向けてしまうことから生じます。かりに親が亡くなっても、執着は続くから、「もっと応えてあげればよかった」という思いが残ります。

さらには、応えないのは人でなし、冷たい人間、自分は人としてどうなのか、みたいな、自分を疑う妄想も噴出してきます。


こうした心情は、わかる人も多いのではないでしょうか。しかしこれを整理する計算式は、つねにシンプルです(『怒る技法』から)。

➀相手の思い(もっといえば魂胆)を見抜く。
 
②自分は自分の人生を生きる。できることはできるし、できないことはできない。
 
③相手の思いに利用されない。人は人、自分は自分だから。

➀については、「問いただす」ことが可能です。

過去覚えている相手の仕打ち(自分がされたこと)を振り返って、「どういうつもりだったのですか?」と直接聞く。

「兄弟に与えたものを、私にはくれなかった。そのことに理由はあったのですか? どんな理由?」と聞く。

「私が今思うのは、あなたたちは、都合よく私を利用してきたということ。その自覚はありますか? さすがにひどいと思いませんか?」

「単純に人として腹が立つ。私をなんだと思っているのでしょうか」

そうやって、自分の思いを偽ることなく伝えてみればよいのです。それに相手がどう答えるか。その答えによって、相手の思惑・魂胆・正体がわかります。

相手の思いが見えれば、その次にすべきは、その思いに利用されることを拒否することです。

他人に自分を利用する資格はない。人をいいように利用していい人間など、この世界に本当はいない。いてはならないのです。

だから、もし向こうが自分たちの思惑・都合だけを見ていて、こちらの思いを理解しようとしないなら、その先関わっても、相手に利用されることになってしまうから、関わること自体を辞退する。

「もうこれ以上、私にできることはありません(したくありません)から、連絡しないでもらえますか?」と伝えることも、選択肢の一つです。


その後に残るのは、「かわいそうかも」という罪悪感かもしれません・・。

しかし罪悪感を背負わせること自体が、実はおかしいのです。その関係性が対等ではないということ。

かりにもし相手が精神的に自立していて、子供たちを平等に思いやる、まともな親であるなら、

「そうだよね、あなたの気持ちもわかるよ(わかるように努力するよ)」
「甘え過ぎていたね、これからは自分も頑張るよ」

みたいな言葉が最初に出てくるものです。ちゃんと相手を思いやれる人から出てくるのは、第一にありがとう、すまないね、という言葉です。

それが出てこないのは、「利用して当たり前」と思っているからかもしれないのです。連絡してくるのも、まだ都合のいい期待を捨てていないから。語る言葉は、不満げ、ものほしげ、そしてイヤミ。
 
「やってくれないの・・・ああそう(あなたは冷たい子だね)」という言外のメッセージをわざわざ伝えようとするのです。
 
もしそれが相手(親)の本音だとしたら、こう切り返すことになります。

「自分の都合が通らない相手を、冷たいとか勝手だとかわがままだとか、そういう言葉しか出てこないあなたが、いかに身勝手か。今の私はそう感じます」
 
「自分勝手? その言葉、そっくりお返しします」


言いなりになるよりも、相手のご機嫌をうかがうよりも、ついキツくなってしまっても、仕方ないではありませんか。言い返せるほうがはるかにマシです。

どんどん言い返せばいいし、怒りが湧いてくるなら、怒りを伝えてよいのです。怒らないより、怒れるほうが、はるかにマシ。

慈悲(優しさ・思いやり)というのは、向ける場面が違うのです。一方的に利用してくる身勝手で無理解な、どうしようもない相手に対しても、慈悲を向けることはできますよ。でもリアルな関係においては、特に自分が苦しめられている場合は、まずは怒れること、伝えること、斬って返せることのほうがはるかに大事。混同させないことです。場面が違います。

総じて、この相談者は、執着まみれでぐちゃぐちゃになっていた一時期よりも、はるかによく見えるようになっています。正しい道の途上にいるし、これまでの選択は、何も間違っていません。

伝えるために努力するは、ヨシ。そして、伝わらないとわかった時点で、それが可能ならばですが、関わりをリセットすることです。関わらねばならぬ人間は、本当はいないものです。親であれ兄弟姉妹であれ、です。
 
「そんなことはない」という声も聞こえてきそうですが、なぜそう言えるのでしょう? もし自分が苦しめている側なら、「そんなことはない」と思うのは、まさに都合を押しつけているから。
 
もし苦しめられている側はそう感じるなら、「執着」があるのかもしれません。そんな(自分を苦しめるような)相手でも、まだ愛されたい、わかってほしい、あきらめきれないという執着が。


ともあれ、この人は間違っていません。すごくよく見えてきています。

自分の感情を大事にすること。

そのうえで技法をもって関わり方に答えを出すことです。


『怒る技法』マガジンハウス

 
2023年8月9日