この世界に抗(あらが)うために~怒る技法

 


『怒る技法』は、2023年3月20日発売に決まったそうです。

著者としては、今回はじめて「書かなければ」という思いで著した作品。過去の作品は、純粋に出家=世俗と一線を引いた立ち位置で書いていたけれども、今回は、世俗に半歩踏み入れた位置で書きました。

世の中、節操がなく、思いやりがなく、平気で人を傷つけ、排除し、マウントを取って自己満足する「マウント・カルチャー」と言えるような言葉がはびこっている。

マウントを取るのは、承認欲と都合のいい妄想さえあれば、誰でもできるから、広がりやすいし、影響力を持ちやすい。快があるから。

言い放つ側にも、支持する側にも、快がある。


しかしその快は、必ず、他の人の苦痛を伴う。当たり前。マウントを取りたがる人間は、マウントされる人間の上にあぐらをかき、傷つけて、その傷に塩を摺り込むことになるから。

マウントを取りたがる心は、「排除」を生み出す。理屈をつけて、その条件に当てはまる人を排除する。当然、分断が生まれる。

決してよいことではない。だがそうした心は、同じ思いを持った心とつながって、増殖していく。

自分さえよければよく、社会にとって、同じ社会に属する他の人たちにとって、利益になるかは考えない。思いやり(痛みへの配慮)や社会的責任、未来への影響という発想がない。


こうした風潮は、いつから始まったか。個人的に思い出すのは、20年前ののイラク日本人人質事件。あの時出てきたのが、「自己責任」という言葉。

同じ時期に始まった構造改革・規制改革によって、企業においては、非正規雇用者が増え、社会保障が切り詰められ、経済的弱者が切り捨てられる傾向が、一段と強くなった気がしなくもない。

「自由化」という名の弱者切り捨てと「自己責任」は、同じコインの表と裏だった。
 

以来、「排除」を、もっともらしい理屈をつけて正当化しようとする風潮が、ずっと続いている気がしなくもない。

政治、経済、文化(学問や言論を担う者たち)、学歴信仰を助長しているように見えなくもない教育・受験産業やテレビ番組、SNSが確実に加担しているであろう今日のマウント・カルチャーにも。


社会に不満を持っている人が多いのは、当然だろうとは思う。だが不満を語る人もまた、自分に都合のいい「排除」の理屈に乗っかってしまっている可能性はある。

社会が「排除」を正当化するようになったからこそ、自分が排除される側に回ってしまったかもしれないのに、その自分もまた「排除」する側に回ってしまっている。

マウント・カルチャーは、排除の理屈の一つだ。マウントを取る側には快。だが、マウントを取られる側、排除される側が確実に増えていく。

そしていずれは、自分がマウントされ、排除される側に回ることになる。

苦しみが増え続ける発想でしかないのに、そのことに気づかない。


本当の問題を理解し、改善への道を地道に進むより、「排除」することは、はるかに容易で快適だ。だから社会の分断は、人が想像する以上に速く進む。


SNS、プラットフォーマー、マスメディア、思考停止した大人や、余裕を奪われた教師たち、地位や年齢や自分に都合のいい制度にあぐらをかいてしまった大人たち、

さらにはそうした世の中に不満を語りながらも、自分もまたマウントと排除の理屈に立ってしまっている、すべての世代・立場にある人たちが、それぞれに原因を作っている。

時代を作るのは、一人一人の人間の思いだ。その思いの中に、マウント、排除、建前、保身、打算計算その他の、その先には閉塞、分断、破滅が待っているかもしれない動機が、たくさん紛れ込んでいる。



言っても届かぬ言葉を語ることは、無意味かもしれない。

だが、届く人には届けなければならない。


社会の分断の手前で立ち止まっている人たち、世のありように疑問と危機感を覚える人たち、私にとっての読者――せめてそうした人たちに、思いやることと、正しく生きる智慧と勇気の言葉を伝えること。


それしかないか。もっとできるか。難しい線引きを、この先していかねばならない。

そうした思いの中で、一歩世相に踏み込んで書き著したのが、今回の作品。


私の命にも限りがある。しかし、誰もが幸せに生きられる世界をめざすことは、変わらない。私からの約束だ。

 

どうか、活かしてほしい。祈るような思いでお願いします。

この世界の未来のためにも。




2023・2・22