痛ましい世界~ミャンマーの人たちを想う

 


日曜の昼下がり、東京・飯田橋界隈で在日ミャンマー人のグループが募金活動をやっていた。

引き返して、以前ミャンマー旅行に行った人から預かっていた寄付(USドルとミャンマー・チャット)と気持ちを持って行った。

総額がいくらか数えていないが、分厚い束だったから、それなりの額だろうと思う。半分に分けて、二か所のグループに手渡した。

彼らにはなんの罪もないが、絶望的な状況に置かれているのは事実だ。傲慢な軍人たちが権力を手放す日など、本当に来るのだろうか。


ミャンマーを旅して、いろんな人たちに出会った。みんな善人。普通の人。

当時、唯一物足りなく感じたのは、人々が仏教を信じすぎていたこと。貧しいのに、その原因を見つめることはしていなかった。本当は、仏教も共犯かもしれないのに。

よき来世のために功徳を積む――その実践が、仏塔を建てたり長老・比丘に布施をしたり。

「来世のため」の布施なのだから、結局は、利欲に基づく行いと言えなくもない。信仰心に見えて、その本質は利欲。彼らが託すのは、来世への期待を得るための対価だ。


その対価を受け取るのは、寺の長老たちと、その背後にいる軍人たちだ。

長老も軍人も、巧みに仏教を利用して、人々の心をミスリードしていた。「輪廻信仰」は、彼らにとって最も都合のいい理屈だ。

今のミャンマーの状況は、彼らの魂胆が剥き出しになったというだけ。理不尽な構造は、ずっと続いていたのだ。

私欲を隠し持った人間と宗教にいくら期待をかけても、最後にたどり着くのは、彼らの魂胆が明るみになることしかない。支配、抑圧、搾取。異議を唱えた者たちへの弾圧と暴力。

ミャンマーの現状は、その一例だ。


私が、いや本来の仏教が「動機を見よ」と語るのは、結局、人間の動機を超える未来など存在しないからだ。

動機(思いの原点)に貪欲と傲慢が潜んでいる限り、そうした動機を隠し持った人間・組織・制度・思想にどれほどすがっても、最後に待っているのは、悲劇である。


そうした結末を見抜けないのは、すがる側にも都合のいい妄想があるからだ。

人間は、自分の妄想に囚われることで、他人が隠し持った動機に、簡単に騙されてしまう。


起きている事態は違えども、世界中で同じことが起きている。日本においてもだ。

 

気の毒に過ぎる。



人の幸せを第一に願えること。

人の痛みを思いやれること。

まともであることが、結局は正しい生き方だ。本当の価値を生みだす源泉となる生き方。



その当たり前の姿に、人々が気づく日は、いつか来るのだろうか。

 

 

受け取ったリーフレットの内容
怒ることだ でなければ滅ぼされる



 2023年3月